ついに、あのコーナーに登場。私の前が、大竹しのぶさん、その前は三宅裕司さん。私が出て、いいのか?人生を変えた、母の言葉を紹介。

2022-10-20 11.12.15

ちなみに・・・。他にあげた候補の言葉はこんな感じ。

ゼミにて
「まだ12時間もあるだろう」
→ゼミのプレゼンの準備をしていた頃、深夜0時に大学の教室にて。もう時間がないので、妥協したプレゼンを用意しようとしたら、こう叱られた。その人は、その後、商社を経て、経営者になった。

大学4年生の頃
神部昌彦さん(博報堂DYメディアホールディングス 局長)
「ビートルズを使ったCMをつくりたい」
→ゼミの先輩の神部さん。切れ者だと評判で、実際想像以上だったが、マーケティングの仕事の醍醐味を伝えてくれた。夢について聴いたところ、こんな答が。ただ、あとでこれが単なる趣味ではなく、とんでもなく難易度の高い仕事だと気づき、さらに圧倒された。

社会人1年目 リクルート(当時)の新人研修担当
「お前は負けたんや。もっと悔しがれ」
→リクルートの新人研修の荒行、「名刺獲得キャンペーン」というひたすら、飛び込み営業をし、名刺を何枚獲得できるかというものがあり、気乗りしないのに「1番になります」と宣言し、出発。しかし、最下位。失意のどん底のもと、会社に戻ってきた際に教育担当に言われた一言。社会の厳しさと、一方で、創意工夫と熱意があれば何かが変わると実感。翌日は上位に。結局、最終日に倒れて救急車。とはいえ、このキャンペーンで社会の厳しさ、現実に気づいた。

社会人6年目 ミュージシャン AO YOUNGさん
「もう、楽しむしかないんだよ」
→高校の同級生、青木篤くんと卒業後10年ぶりくらいで再会。彼は大学卒業後、就職をせず、アーティスト活動を続けていた。彼のバンドが、道志村のキャンプ場で開催される野外フェスに出ると言うので、友人たちと行くことに。ただ、前日は滝のような雨。当日も天候はあまりよくないと言われ。ただ、そのときの携帯メールに「もう、楽しむしかないんだよ」とあり。普通の会社員で自分の保身を考えていたころで、自由を極めた人の凄みを感じた。その後、著者としての人生にも大きく影響を与えた。ちなみに、彼はその後、フジロック出演、海外ツアー決行を達成。

バンダイ時代、32歳くらいの頃
現チーフガンダムオフィサー、バンダイナムコエンターテインメント常務取締役藤原孝史さん
「今は盆栽を作っているお年寄りが、ガンプラをつくる時代をつくりますよ」
→同年代、同役職でホビー事業部のガンプラ営業のエースだった藤原さん。何度も会社説明会や面接に協力していただき、同席する機会が多く。クールな彼が、学生に将来の夢を聞かれた際に、何度かこう答えていた場に同席した。私はその後、会社をやめたが彼はあれよあれよと出世し、本当にそういう社会をつくった。ビジョンがあり、実行する人の凄みを感じた。

著者デビュー4年目
母(北海学園大学 名誉教授 常見信代)※これが採用
「お前の本は半年で消える。私の本はずっと残る。残る仕事をしなさい」
「お前は才能がある。ただ、勉強が足りない」
→著者デビュー4年目で、メディアにもよく出るようになった時期だったが、やや不完全燃焼感を抱いていた。そんな頃に母も監訳した本をリリースし。その際に、こんなことを言われた。相変わらずの厳しさを感じたが、著者として一皮むけなければと思った次第。
10年くらい前
海老原嗣生さん

「君は50歳まで正論を言い続けろ。すごいやつになるぜ」
→20年前に記者と広報という立場で出会った海老原さん。その頃から視点のするどさ、斬新さに圧倒されてきた。ある日、会食の席で。著者としてのあり方を叩き込まれた。
最近

岩波書店 編集者 中本直子さん
「なめられない仕事をしなさい」
→会食の席で。岩波の、中本さん以外の方が担当している原稿について言い訳をしていた中、常見は安請け合いをしすぎではないか、メディアから便利に使われていないかと説教をされ、岩波のぶれない姿勢を聞かされ、バカにされないような仕事をしろと言われ、奮起した。

皆さんの言葉のおかげで、生きている。

さ、言葉に出会うために、今日も前に進みますかね。