
2009年から昨年まで、関西学院大学のキャリア教育プログラムのお仕事を頂いていた(就活時期の変更や、諸々方針変更などで、昨年で終了した)。本当に、優秀な熱心な学生を教えることができること、なんせ担当の教職員も優秀で熱いこと、自分にとっても良いチャレンジだったので感謝していた。
このプログラムに、もう一つ、感謝していたことがある。
それは、歴史学者だった、私が小学校5年生の時に39歳で亡くなった父と「再会」できる機会だったからだ。関西学院大学の千刈キャンプ場のラウンジにある書棚には、父がある項目を担当した平凡社の百科事典が置いてあるのだ。実家には置いてあるのだけど、さすがに改めて買うのにはやや躊躇し。ただ、この場に行くたびに「コルベール」という項目をひくのが楽しみだった。毎年、この言葉をひく度に、バカ息子、ドラ息子ではあるものの、なんとか生きていることを報告している気分になる。「生きていなさい」と言われている気になる。
2年前にはついに父が生きた年数よりも長く生きてしまった。中二病の人は(私も含めて)、尾崎より長く生きたとか、カート・コバーンやhideよりも長く生きたとか、もちろんジミヘンやジャニスよりも長く生きたとか、彼らが生きた年齢を超えるたびに「俺も●●より長く生きてしまった」とロック少年風に言ってきたのだが(意識高い系批判している者が意識高い系そのものだな)、とはいえ、父より長く生きてしまった時には色々くるものがあった。
もともと公言しているが、私は母子家庭で育った。さらに言うならば、亡くなった父は身体障害者手帳を持っていた。父と母は北海道大学の大学院時代に学生結婚したのだが、結婚してすぐに父は脳腫瘍になった。当時は不治の病と言っていい病気である。ましてや、頭脳を酷使する研究者の卵なので、治療方法も限られていた。
私の幼い頃の思い出は、父のリハビリに付き合うことが、親子のコミュニケーションだったことだ。父は煙草と珈琲と、選挙速報が好きだった。本当に、煙草と珈琲完備で、ブラウン管にかじりついて見ていた。杖をつく父と一緒に珈琲豆を買いに行ったのも、手でまわすコーヒーミルを一緒に回したのも、良い思い出だ。危篤状態の時も「煙草が吸いたい」と言ったっけ。さすがに危篤状態なので、吸ってもらうことはできなかったし、私はそれがトラウマで逆に煙草を吸わない人になったけど、煙草を吸う父の姿は最高にかっこ良かった。
というわけで、小学校5年生の4月下旬に、私たちは母子家庭になった。いや、さらに言うならば、父が死ぬ前から母は、いくつもの大学の非常勤講師や、医者のお子さんの家庭教師までして、私たちを育てた。もっと言うならば、パートナーが将来死ぬ可能性が極めて高い中、私と弟を産むという意思決定をした。その件について、大変に感謝しているし、尊敬している。
母はその後、短大の助教授になり、その後は大学に移り、今年度で定年退職する。その年に私は大学教員として就職した。何か感慨深い。来年は母と一緒に研究所(というか、会社)をつくる。親子で、社会に貢献できる「知」をアウトプットするつもりだ。不遇な時代が長かった母を全力で応援するつもりだ。
はっきり言って、我が家は特例だ。それを一般化するつもりは毛頭ない。はっきり言って、何不自由なく育ったし、東京の大学にも出してくれた。人生の大きな意思決定は全部、事後報告するという不義理をしてしまったが、それでも応援してくれた。
母子家庭なみから言うと「勝ち組」ということになるのだろう。可哀想な自分を演じるなという話になるだろう。ぶっちゃけ、幼い頃、欲しい本は全部買ってもらったし、ファミコンもパソコンもラジコンも買ってもらった。ライダースジャケットを買うことも許してくれた。ベースも買ってくれた。「テストで学年で1位になったら、ヘビメタのライブに行かせて」と中2の時にお願いし、実際に1位になり、ライブに行かせてもらった。いちいち、恵まれていたと思う。
わかる。
ただ、人というのは、実に些細なことで傷ついてしまうものなのだ。
小学校時代の担任には「お前は母子家庭なみから言うと、自覚が足りない」と言われ、皆の前で何度も殴られた。
仲の悪い同級生には、うちは母子家庭なみから言うと裕福なのにも関わらず、「お前、頭いいけど、大学行く金、あるのか?」と面と向かって言われた。
「片親」という言葉に過剰に反応してしまう。そんな自分が情けないような、可哀想なような、不思議な気分になる。
「あれ、ウチのクラスって片親の家庭ってどこのうち?」という言葉を親友から直接聞いたこともある。同世代の札幌市民だったら知っている南光園という焼肉屋のCM「ウチですよ、ウチ、南光園」というフレーズに合わせて、「ウチですよ、ウチ」とボケるのが精一杯だったこともある。
なので、仮に「弱者界の強者」であったとしても、ちょっとした言葉で傷ついてしまうのだということを理解して頂きたい。
さて、炎上気味なのでご存知だと思うのだが・・・。
私は、「ひとり親を救え!プロジェクト」というものに対して、複雑な心境になっている。
特に、このchange.orgでの「宛先: 菅義偉 官房長官 子どもを5,000円で育てられますか?貧困で苦しむひとり親の低すぎる給付を増額してください!」というキャンペーンについて、だ。
このキャンペーンの趣旨は、わかる。
一応、雇用問題を追っているので、「ひとり親家庭」の「貧困」についても、一通り関連した本を読んでいるし、分かっているつもりではある。
そして、自分が「裕福な母子家庭出身者」という稀有な存在であることも分かっている。
そもそも、自分を一般化することは愚かであり、卑怯だ。
大好きな、感謝の念しかない母からも、この件に関する説教メールがきたし、何より妻からは隣で糾弾された。しかも、「社会貢献している人を否定するな」と言われた。やれやれだ。これぞ四面楚歌ではないか。私の周りで「ソ!」という叫び声が聞こえる。
いや、しかしである。
趣旨はよく分かるが、とはいえ、このキャンペーンは、やや配慮が足りなかったのではないか。というのも、ここまで書いたように、弱者というものは、いくらその割には裕福であっても、虚勢をはろうとも、どこかこう、傷を抱えているものであり、なんというか、小さな一言で傷つくものである。
趣旨分には賛同できるし、やや煽らないと賛同を得られないのもわかるが、とはいえ、この「宛先: 菅義偉 官房長官 子どもを5,000円で育てられますか?貧困で苦しむひとり親の低すぎる給付を増額してください!」というキャンペーン名は、ひとり親家庭の気持ちをわかっていないのではないかと思う。
いや、今時のひとり親家庭が可愛そうであることは事実だ。それは疑いようもない。それは労働問題に取り組んでいる者としてよく理解している。
ただ、この問題に長年取り組んでいる人たち並みからいうと配慮がたりないと思うのだ。揚げ足をとっているように見えるだろう。ただ、この手の人たちは、ちょっとした一言で傷つくのだ。
そして、複雑な想いを抱いているものである。
たとえば、シノドスでの、岸政彦先生のインタビューを読んでみて欲しい。
他人を理解する入口に立つ――ライフヒストリーに耳を傾けて 社会学者・岸政彦先生インタビュー
http://synodos.jp/intro/14020
彼が取材したホームレスの人達も、様々な想いがあってホームレスをやっている。別にだらしない人たち、負け組ではないのだ。
そして、差別されている人というのは、何らかの想いがあるものだ。それこそ「もっとバカにしてくれていいんだぞ」くらいの想いの人さえいる。さらに言うならば、あるのは違いだけだ。
諸々、失礼な部分はあったと思う。
ただ、この件に関するフローレンス駒崎氏のツイートはいちいち首を傾げてしまう。
一部のツイートを切り取るとまさに印象操作になってしまうので、私に対する一連の抗議と歩み寄る姿勢を読んでほしい。
社会貢献している俺、偉いアピールになっていないか。
さらに言うならば、この問題に長年取り組んでいる俺、偉いアピールになっていないか。
なぜ、長年取り組んでいるのに、弱者は小さな一言で傷ついてしまうことを分からないのだろう。そして、たとえ「勝ち組母子家庭」とその息子だったりしても、色々心の傷をおっていることも。
これに対するイケダハヤト氏(師と書かないのは、変なdisりだと勘違いされないためだ)の一連もツイートも首を傾げてしまう。
あ、ブロックされているため完全には読めない。でもhootsuiteなどで流れてくる(このサービスはブロックされている人のツイートもエゴサするとわかる)ツイートで駒崎氏を擁護していた。
ただ、これ自体が勘違いではないか。
社会貢献のやり方は色々ある。
母子家庭出身だと名乗ること、雇用に関するオピニオンを発信すること、被災地の雇用支援のために手弁当で通ったこと、ブラック企業やブラックバイトの問題、一票の格差問題などに取り組むこと。ギャラは聞かずに雇用問題の講演は可能なかぎり協力すること。いまや4割弱の夫婦が離婚する時代なので、教え子にもひとり親家庭は多数あるが、応援するということ。そもそも、普段の仕事、いや生活だって社会貢献だ。
これらはすべて、私なりの社会貢献だ。もちろん、NPOをやっている人のように組織化されてはいないし、そういうのは得意ではないのだけど(そういう活動をしている人はリスペクトしている)、言わずに黙ってやる、あえて社会貢献していることをアピールしない。これも私なりの美徳だ。自分のできる範囲で、自分のスタンスで取り組む社会貢献があってもいいではないか。イケダ氏のツイートなどは、社会貢献をしていないお前はバカだ的な論調ではないか。想像力が欠如していないか。
また、私の書籍を読んでいる人なら、「意識高い系」批判というのも、別に若者の芽をつむわけではなく、努力の仕方にもやり方があるのではないかということを言っているのだ。
幸いにも乙武氏、今一生氏のツイートに癒やされた(冷静になるために、いったんメンションを読むのをやめていたが、寝る前にみた)。
というわけで、私は「ひとり親家庭」は全力で応援する。
しかし、「ひとり親を救え!プロジェクト」は応援しないことにした。尊敬する友人もいっぱい参加しているのにな。
まあ、私は駒崎氏ほど人気者でない。たくさん批判コメントも頂いた。
ただ、「勝ち組母子家庭の息子」と揶揄されるかもしれないし、特例だと思うし、一般化するつもりもないが、私の気持ちもわかって欲しい。
私はズルいと思う。自分の家庭環境を持ちだして。でも、こういう微妙な配慮って必要だと思うのだ、支持される社会運動になるために。
そして賛同を得るためには煽りも必要だと思うが、長年取り組んできた割に配慮がたりないというか、ひとり親家庭の気持ちに無神経なのではないか。
皆さんはどう思うだろうか?
もちろん、ひとり親家庭は応援する。私なりのやり方で。
追記(10月26日5時21分):今一生さんが、まとめ的なエントリーを書いていた。ご覧頂きたい。
常見さんと駒崎さんのツィートで考えた「ひとり親家庭」