朝日新聞デジタルにインタビュー記事が掲載された。ガンプラ40周年に寄せて。ガンダム世代として、元バンダイ社員として、そして『僕たちはガンダムのジムである』(単行本はヴィレッジブックス、文庫は日本経済新聞出版社からリリース)の著者として。

僕たちはガンダムのジムである (日経ビジネス人文庫)
常見 陽平
日本経済新聞出版社
2015-12-02


・・・代表作だよな、この本。いまだに越えられない壁かもしれない。進化しなくては。いや、しているはずなのだけど。まずは目の前の4冊を仕上げなくてはなのだけど。

2020-02-27 12.27.05

築地の朝日新聞社で取材を受けたときに、私は実に久々に、いや、もう人生で数回しかないと思うのだけど、インタビュー中に感極まって泣いてしまった。その理由を語ることにしよう。

築地は実は、私がバンダイに転職しようと決意した場所である。リクルート時代の後半、体調を崩し病院でレントゲンを撮った。肺に直径2センチ弱の影がある。肺癌の可能性があるからがんセンターに行けと医者は言う。悪い冗談かと思った。人生初の「医者の紹介状」をもらった。

自分は死ぬかもしれない。胸をあけて肺を切るかもしれない。そんな不安を胸に、当時住んでいた新松戸のマンションを出て、築地のがんセンターに向かった。日経を片手に。1面を見てびっくり。「バンダイとナムコ、経営統合へ」と。実はバンダイからは数年前から接点があり。

検査結果はシロだった。そのとき決断した。「バンダイに行こう」と。2005年秋のナムコとの経営統合のタイミングで、私はバンダイに移った。

採用担当者としてモーレツに働いた。売り手市場だった。会社も変革期だった。経営陣やエースと言われる人と接点を持つことができ。他社の人事とも交流を持つことができ。年収はリクルート時代に比べて200万円下がったのだけど、人生においても充実した時期だった。

バンダイはビデオ朝礼というものがある。取締役だった福田祐介さん(現:株式会社BANDAI SPIRITS 代表取締役社長)が登場した回があり。痛く感動し、私はメールを書いた。このあたり、直訴するのは元リクルートっぽいやり方だと思う、いま思うと。すぐに返事がきた。「常見くん、飯をくおう」と。

会食の前夜、0時ごろ床についた私は10秒で起きた。ドラマのような起き方だ。福田さんに伝えたいことを、企画書にまとめよう、と。3時までに20枚の、いち人事担当者で考えている課題をまとめた。

バンダイ関係者(特に役職者)が使う浅草の「にいはら(その後、閉店)」で食事。乾杯の後、私は「考えたことをまとめてきました」と企画書を渡す。約3時間激論。「この企画書はファイルでよこせ」と言われた。その後、経営改革プロジェクトに呼ばれたのは、このときの縁かもしれない。

そのときの20枚のドキュメントの中で私は会社のことを「駒形村(いわゆる浅草にあるのだが、住所は駒形なのだ)」と表現し、問題提起していた。

結局、その数年後、私は会社を辞めるのだが。そのときに、お世話になった方にBCCではなく、1人1人メールを書いた。福田さんの後任の経営企画担当執行役員にも。若くして出世した方だったが、切れ者だった。いや、よりストレートに書こう。怖かった。叱られたことも何度もある。その方から過去最高にあたたかい返信があり。「常見くん、僕は駒形村を変えてみせるよ」と。おっかない彼の前では一度も使ったことがない言葉だったはずだ。福田さんが問題意識を共有してくれたのだろう。

その後、彼は取締役になり。モーレツに改革を進めた。見事に「駒形村」の改革を進めていった。

ある日、人づてで彼が亡くなったという話を聞いた。癌だったらしい。その時は悪い冗談かと思い、泣かなかったのだが。

ひどく鈍感で。インタビューを受けているうちに、私との約束を果たした先の早すぎる死だったと実感し。昨日は取材の席で泣いた。

ちょうどその頃、バンダイナムコグループの人事がホールディングスのページで発表になり。人事時代にお世話になった方、特に同世代の方や、その頃の若手が出世しており。胸がいっぱいになった。明らかに失敗を重ねている方、在庫の山をつくった人も取締役や執行役員、部長になったし、私がジョインした頃の内定者も部長になっていた。こういうの、いいなと思った。

なんせ、いまの私は家庭に、子育てに没頭しており。死ぬほど働くことはなくなり。その危機感のなさはいかがなものかと思うのだが。未曾有の危機に直面し。死に至るウイルスではあるし。なんせ、経済への影響は甚大であることが確定的で。

でも、死を意識したあの日のことや、亡くなったあの人のことを思い出した。ありがとう。

このインタビューはかなり赤裸々なので、読んでね。ぜひ。