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SEKAI NO OWARIのSaoriが結婚するという嬉しいニュースが届いた。お相手は人気男優の池田大だという。同じく、セカオワの構成員Nakajinも一般女性との婚約を発表した。新年早々、実にめでたい。あっぱれ!

同バンドの大ファンというワケではないが、構成員のDJ LOVEにルックスが似ているとよく言われること、同バンドが社会現象となっており関心を抱いていた。いや、それ以上になぜか、このバンドにおいては、SaoriとNakajinに妙な共感を抱いていたのだ。それは中間管理職の悲哀というか、組織において尽力しているが注目が集まらない者への同情である。

なんせ、世間の注目はボーカルのFukaseに集まる。しかも、Fukaseがどんな女性と付き合っているかに注目する。はっきり言って、この注目の集まり方、もっと言うならば取り上げ方自体がゲスの極みである。それは、モテる男の宿命ではある。ただ、バンドの常ではあるが、フロントマンに、音楽以外も含めて注目が集まりすぎるのは、せっかく良質な音楽、ライブを生み出しており、なんというか歯がゆいのである。

さらに、可哀想なことに、同バンドの解説もしばらく紋切型だった。「独自の歌詞の世界」「構成員全員が同じ家で生活」「テーマパークのようなライブのセット」というものだ。これは確かに、セカオワの特徴や魅力の一つではある。しかし、この「NHKの紅白に出た時に、実家の祖父母が初めて聞いて理解できる」レベルのわかりやすい説明が、セカオワを逆に小さなものにしていなかっただろうか。

私はセカオワがそれなりに好きだが、その中でもFukase以外の構成員に注目していた。あの、モテて、目立って、面倒くさそうなFukaseとやっている3人。そこには、報われない中間管理職の悲哀のようなものを感じていた。特にSaoriが鍵盤を弾くときに、Fukaseの背中や他の構成員の方を見る様子、Nakajinがギターをかき鳴らす様子に魅力を感じていた。彼らがいるからこそ、実はメンタルが不安定そうなFukaseは安心して歌を歌うことができるのではないか、と。特にSaoriに関しては、セカオワを支えつつも、自分自身が壊れてしまいそうな危うさと、しかしその破滅に向かうキラキラした美しさのようなものを感じていた。Fukase以外の構成員こそ、セカオワらしさを創りだす創造するミドルなのではないかと。なんであれだけ頑張っているのに、話題はFukaseの女性関係だけなのだろう、と。

そんなSaoriとNakajinが、それぞれ人生の伴侶を得たというニュースは、私にとって一服の清涼剤、いやそれ以上のものであった。セカオワを超える、最高の家庭を創ってもらいたい。人生の先輩として、少しだけ進言させて頂こう。愛はもらうものではなく、与えるもの、そして創るものである。一方、そのことに頑張りすぎてはいけない。自然体で過ごすこと。理解すること。これが大事だ。

一緒にいるからこそ、安らぎを得られたり、輝くことができる。いや、輝かなくてもいい。幸せというものを感じることができるならば。

ちょうど昨日、会社員時代の同期と会う機会があったのだが、彼とその奥様(社内結婚は)は「常見君は結婚して、本当良かったね。エキセントリックな君を受け入れてくれる人がいて」と言われた。42歳にもなってヤンチャなこと、根無し草のようなことをしていられるのは、家庭があるからこそだ。昨日も仕事が上手くいかず「死んでやる!」と書斎で泣き叫んだが、その危うい状態でも、すぐに冷静さを取り戻せるのは、家庭があるからである。

家族の証明とは一緒にご飯を食べることである。さらに会話の質が豊かであること。突き詰めること、これこそが幸せな家庭なのではないかと考える。

「婚活」という言葉が話題となってからもうすぐ10年だ。結婚するのも、それを続けることも大変な時代であることはデータを見ても明らかだ。結婚はもう当たり前のことではない。そんな時代だが、ファンたちに、いや世の中に「結婚っていいな」と思われるような、幸せな家庭を築いて欲しい。ただし、力まずに。頑張り過ぎずに。どんな日でも支え合える、家族ってやっぱり、いい。一人じゃないというのは、奇跡だ。

というわけで、セカオワのSaori、Nakajinのそれぞれの結婚を祝福する。

彼らのアルバム、『Tree』を書斎で聴きながら。

KATEI NO OWARIとか、ダメだからな。

若者たちよ、結婚はいいぞぉ(『北斗の拳』のアミバ様風に読むこと)。