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若者の◯◯離れという言葉が嫌いだ。この言葉自体に、過去に対する憧憬と、若者に対する差別・区別の意識、旧来の若者像を押し付けるかのような姿勢が感じられる。「若者の読書離れ」に関しても、物書きとしては、複雑な心境になる。ただ、若者がここまで「文字」を読んでいる時代もないのではないかと思う。たとえそれが、芸能やスポーツ関連のネットニュースや、まとめサイト、友人とのLINEのやり取りであったとしても、だ。

問題は「何」を読むのか、「どう」読むのか。そもそも、「読む」という行為にどんな価値を見出すのかという話である。「読む」に「知る」だけの価値を見出すなら、手軽にネットニュースや、まとめサイトを読んでおけという話になる。しかし、「読む」という行為の意味はそれだけだろうか。文を通じてその著者と対話すること、どんな駄文であれそれを通じて考えること、文体を味わうこと、その時代や人物を読むことなど、「読む」には「知る」以上の楽しみがある。

Google翻訳が強化されたことが話題となっている。なるほど、これにより世界中のソースにアクセスし、「知る」ことができる。言語の壁をますます超えることができる。世界中の人が手をつないで働く機会も増えるだろう。各国の文化を発信しやすくなったともいえる。しかし、これにより「知る」「読む」という楽しみの一部を人類は失うのではないか。

これまでの人生で英語、仏語、スペイン語を学ぶ機会があったし、高校では漢文を読んだが、これに触れ合うということは、単に「知る」「訳す」というだけでなく、文化と接する機会だった。各国の国民性を知る機会の一つでもあった。本当に言いたかったことと向き合う機会でもある。大学受験の時も、大学時代も、大学院時代でも難解な英文と向き合うことがよくあった。特に院生時代はそうだ。なんとか訳書がないのかと探すのだが、その訳書も決して良い出来ではなく戸惑った。そんな時に、英文と必死に向き合って、なんとなくわかった。

Google翻訳はグローバル化で直面する「不」を解消するものではある。もっとも、グローバル化で同様に我々が直面する「不」とは文化や価値観の理解である。米国大統領選や英国EU離脱は賛否と戸惑いを呼んだ。それを理解するためには、各国の者の声を聞くべきであるし、その際もGoogle翻訳は有益である。もっとも、訳が正確かどうかではなく、ニュアンスやその価値観までこのシステムは翻訳してくれるのだろうか。翻訳システムがもしハックされたら、諸々間違って伝わる、怖い世の中でもある。

不自由であること、難しいことの楽しみも忘れてはなるまい。なんだかんだいってGoogle翻訳のお世話になる機会もあるのだろうが、私は外国語と向き合う喜びを手放さない生き方を選ぶことにする。