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よく
1.常見陽平は社会貢献活動をしていない
2.そういうことを頑張っている人を意識高い系と批判するのはおかしい
3.お前も何か目標を持って、何かを成し遂げたらどうなんだ
みたいなご批判の声を頂く。特定の案件を言っているわけではなく、一般論としてというか、日常的に。

こういう批判をする人って本当に分かっていないなって思う。とりあえず、タクシーをとめて「近くの本屋か図書館!」と叫んだあと、岩波文庫を最低10冊読めばいい。何でも構わない。このレベルの批判をする奴は。まず、縦書きの文字を読んで(英語の論文か学術書、専門書、歴史ものか、評価されている小説だったら横書きでも許す 英語ってことな)、心を豊かにしてからモノを言って欲しい。

これらはわかっていない人の言うことなのだ。

1についてだが、私は社会貢献活動をしている。日々の仕事が社会貢献活動だと思っている。労働問題を中心としつつ社会運動にも参加しているし、意義があると感じた仕事にはボランティアに近い料金で参加している。可能な限りメディアの取材に応じるのだってそうだ。ボランティア活動をしていた時期もあるし、学生のサークルに多額の援助をしたこともある。これは問題だと思ったことがあったら、例えば政治家や学者に進言したりする。メディアで問題提起することだってそうだ。

2について。えっと。社会貢献したいという志は評価したいのだが、目指したい社会の像なんてものは、人の数だけある。と言うのは言い過ぎだとしても、問題に対する捉え方と解決策はいろいろなわけで。だから、Aという社会貢献活動(詳しく分解すると目的や方法)が正しいとは限らない。ボブ・ディランの「いつもの朝に(One Too Many Mornings)」風に言うと、「君の立場では君が正しい 僕の立場では僕が正しい」というわけだ。まあ、自分の正しいと思ったやり方で、やれる範囲でやればいいと思うのだが。でも、そのやり方や、やる程度についての批判はあるだろう。批判とは言わないまでも、疑問くらいは。

社会貢献活動というのは、やればいいというわけではない。そして、やると批判されるリスクだってあるわけだ。いかにも「意識高い系、乙!」というような足を引っ張るようなツッコミではなく、「それって偽善じゃないか」という。

で、「意識高い系、乙!」というツッコミも、完全に間違っているわけでも、希望の芽を摘むわけでもなく、実際そういう偽善というか、自己PRのための社会貢献っぽい取り組みもあるわけで。単なる売名行為だったり、ギルティーフリーになりたいだけだったり、偽善だったりすることもあるわけだ。

社会を本当に変えたいなら、しょうもないツッコミも含めて向き合わないといけないのである。

3については、そんなこと言われなくてもいつも努力している。こういう、頑張っている(風)の俺は正しくて、そうじゃないお前はバカだという人はどうかしている。



というわけで、世の中全体が意識高い系という病に冒されているように思う。いや、私は努力は否定しないし、自分でも愚直な努力をしていると思う(って言うのも恥ずかしいけど)。でも、実力も行動も伴わない偽善を「俺は正しい」とアピールするのは違うと思うのだ。

というわけで、社会を変えるなんて大義名分を自分のアピールのために使うなって話だ。



要するに、僕たちはガンダムのジムであるってことだ。うむ。