最新作、『エヴァンゲリオン化する社会 「逃げちゃ駄目だ」で軋む職場』(日本経済新聞出版社)がリリースされた。エヴァ×労働というテーマだ。

20年前に放送開始になったこの作品は、日本の労働社会の変化を予言していたではないかという問題意識のもと、書いた。ブラック企業問題、非正規雇用者の増加、「グローバル人材」をめぐる迷走、女性の活躍(という名の酷使)、使徒のように静かに次々と襲ってくる労働環境の変化など、エヴァ×労働で1冊、書き倒している。

この本の裏テーマは『新世紀エヴァンゲリオン』という「不幸な作品」を、呪縛から解き放つことである。私はサブカル評論家ではないが、この本を書くにあたり、作品を見直し、サブカル評論家や社会学者が書いた数々の論考を読んだのだが、これほど誤解されている「不幸な作品」はないなと思った次第である。

1995年10月4日に始まったこの作品は、ちょうどこの年に「集合的記憶」とも言える、阪神・淡路大震災や、地下鉄サリン事件が起こったこと、映画版が公開される頃に、酒鬼薔薇聖斗事件が起こったことなどから、世紀末的空気と作品の世界観が重なり、話題になっていった、と一般的に説明されるし、それは間違ってはいないのだが・・・。

「そもそも、所詮、巨大ロボットアニメではないか」と私は考えた。サブカルを論じることは楽しいし、それは時代の空気を反映するし、それを研究する行為、語ることはまったく否定しない。ただ、この作品は「世紀末的空気を代弁すること」という宿命を「背負わされてしまった」ことが問題なのではないかと考えている。

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エヴァに関する展示会で、1993年に書かれた当初の企画書を読んだが、そこには「巨大ロボットアニメ」であることが高らかに宣言されている。なお、巨大ロボットアニメとツイートしたら、エヴァはロボットではないだろというツッコミツイートを頂いたのだが、私はこのように、そもそも巨大ロボットアニメとして定義されていたこと、一般的にこのジャンルにカテゴライズされることを言っている。

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実際、作品を通して見てみると、別に、徹頭徹尾暗いわけではなく、巨大ロボットアニメならではの爽快なアクションシーンは魅力的である。特に惣流・アスカ・ラングレーが登場した第八話あたりからはその色が強くなっている。もともとのTV版全26話の中でも、特に第九話などは、主人公碇シンジと惣流・アスカ・ラングレーがコンビで攻撃をするために涙ぐましい、ユーモラスな特訓をする話となっていたりする(この第九話が異色であると言えばそれまでだが)。

そして、率直に、この作品を見返してみて「稚拙」「未完成」であることを再確認した。まるで心理テストのような問答が続くTV版のクライマックスも、静止画が多用されており、作品作りが追いつかなかったことは明らかである。「多くの謎を残す展開」などと語られるが、作り手自体も消化しきれていなかったのではないだろうか。

しかし、その稚拙であり、未完成であることを、ファンの想像力・創造力が補填するという構造になっていたのである。メディアも上手く、この作品を利用してしまったのだろう。コミュニケーションを描いた作品でもあるが、この作品自体がコミュニケーションツールになっていったといえるだろう。そこでサブカル評論家や社会学者と呼ばれる人たちが意味付けを行っていったのだろう。作品を全部ちゃんと見ていないのに。

また、「再放送で人気に火がついた」というこの作品に関するよくある説明も、雑である。一般に売れたという意味ではその通りであり、「再放送や映画版で人気が一般に広がる」のは『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』など、それまでのアニメの枠を超えた作品によくある傾向ではある。

ただ、『新世紀エヴァンゲリオン』は『トップをねらえ!』や『ふしぎの海のナディア』で知られる庵野秀明の最新作ということで、作品を創っている段階からアニメ雑誌で注目されていた。

テレビ放送の中盤の時期である95年12月28日と29日に開かれたコミケ(コミックマーケット49)では同作品関連の同人誌が大量に出品されていた。96年2月に発売された、第壱話、第弐話が収録されたLDの初回BOX仕様は発売と同時に完売。番組が終了し、まだ再放送が始まる前の同年5月に出たオリジナルサウンドトラック第三弾はオリコンアルバムチャート1位を獲得(アニメ関連のアルバムがオリコンアルバムチャート1位となるのは『銀河鉄道999』以来、17年ぶり)。同年6月には東京の三鷹市水道局がタイアップした節水キャンペーンを実施。綾波レイの描きおろし浴衣姿のポスターを街中に張り出したのだが、三鷹市役所には業務に支障をきたすほど問い合わせが殺到した。

再放送が始まったのは劇場版が公開される前の1997年春である。

「再放送で人気に火がついた」というのは、極めて雑な説明である。

「所詮、ポップカルチャーなんだ。サブカルとか、クールジャパンとか、カッコつけて言うんじゃない」


これは代表作である『僕たちはガンダムのジムである』(ヴィレッジブックス)がキッカケで、ある大御所と対談した際に、その方から頂いた言葉である。この姿勢は大事だと思う。そして、あまりに作品に期待してしまったがゆえに、作品本来の魅力が理解されず、評論家、社会学者と言われる人たちの適当な言説にこの作品が利用されてしまったというのが不幸な構造なのだ。

・・・私もこの作品を元に労働問題を語ってしまっているのだけどな。

その、「作品を、二次創作などで楽しむ姿勢」についてはそういえば、東浩紀氏が論じていた。東浩紀氏の代表作である『動物化するポストモダン』(講談社 2001)にて、コンテンツの受容のされ方に関して、『新世紀エヴァンゲリオン』を引き合いに出している。彼は「データベース消費」というコンセプトを打ち出し、同作品のファンが作品世界に没入するのではなく、登場するキャラクターを題材にした同人誌などの二次創作物や、登場するメカニックのフィギュアの製作などに熱中する傾向にあり、世界観よりもキャラクターやメカニックといった情報の集積、大きな非物語が必要とされていると論じた。

東氏の言うことは間違っていないが、ただ、この姿勢はエヴァから始まったわけではなく、80年代にとっくに見られた動きである。作品とのタッチポイント、楽しみ方はとっくに変化していたのだ。ただ、これもまた、巨大ロボットアニメとしての魅力を削ぐものになってしまったのだけど。

所詮、巨大ロボットアニメだ。

そんな姿勢で見直してみると、この作品は稚拙で未完成だけど、面白い。

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雇用・労働の問題を追っている者、そしてエンタメ業界の中の人だった経験がなければ書けなかった作品だと自負している。労働問題に関しては、常見節炸裂な感じなのだけど、サブカル論の部分もぜひ、読んで欲しいのだ、うむ。