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今週発売の『潮』の7月号で、小田嶋隆さんの『友だちリクエストの返事が来ない午後』(太田出版)の書評を書いた。

ここでの書評があるので、あえてこのブログやソーシャルメディアでは、この本のことをふれなかった。今回、載ったので、できるだけその内容とかぶらないように、感想を。

この本が秀逸なのは「友達」というか、人の「つながり」というのがあったかいものでも何でもなく、実は面倒くさくて、冷たいものであることを描いていることだと思う。

そう、「友達」とか「つながり」は面倒くさい。面倒くさいというのは、人間関係のうざったさ以前に、定義が難しいのである。

ちょっと挨拶しただけで「常見と友達だぞ」と言いふらされて、「迷惑だな」と思ったことはよくある。著者としてデビューする前にも、それこそ高校や大学くらいでもそんなことがあった。え、挨拶したら、ちょっと会話したら「友達」なのかな。

この辺の距離感は難しくて。私は意外に人見知りだということもあり、出会ったばかりの人に馴れ馴れしくされるのが苦手なのだ。その人見知りを制するために、自分から声をかけるようになったのが、大学時代、いや社会人になって数年してからの変化かな。

ソーシャルメディアでちょっとやりとりしただけで「友達」になってしまう時代。

一方、それは本当の友達じゃないかというと、そんなに簡単には分けられなくて。むしろ、ネット上でやりとりする人というのは、昔からの親友以上に自分のことを見てくれているのではないかと思ったりもする。それこそ、ネット上のアンチやウォッチャーに至っても、自分を攻撃してくる点において感情的には嫌なもののようで、少なくともネット上では親や家族や親しい友人よりも「よく見てくれている」存在ではある。

あと、権威のある人、仕事上で会う人は「友達」と言ってはいけないような気がしている。やはり、仕事を頂いている関係なのだ、というケジメをどこかで持っていないといけないな、と。

「友達だろ」「仲間だろ」などという言葉も面倒だ。これで信頼や誓約を装うのはブラック企業の手法である。

ここで「本当の友達」という言葉が出てくるわけだが、これもまた面倒くさい言葉で、「本当の友達」と呼ばれる人の全てを知っているかというと、そうではない。例えば、20年以上の付き合いになる中川淳一郎について、知らないことはいっぱいある。

それこそ、2013年8月にTBSラジオ「Session−22」に一緒に出演した際に、奴が泥酔していて、アル中問題が発覚した時に、その後、彼とは赤坂で3時すぎまで語り明かしたのだが、彼のアルコールの問題が深刻だったことをその時に認識したわけで。よくわからなかったわけだ、互いに忙しくて。それこそ、「仕事」でしか会わない時期だったわけだな。

ただ、その時に3時まで語り合ったことの濃さというのは、やはり「本当の友達」ならではだったと思う。

まあ、この件についてラジオを聴きもせず、中川に会いもせず、想像で中川=アル中と連呼していた奴は最低だけどな。

一方、昨年、25年ぶりに中学校の同期会を開催したのだが、実に久々に会う仲間、一緒に場を仕切った仲間に「友達」を感じたり。25年も会っていないのに。

友達って何だろうね。

その定義が面倒くさく、時に冷たさすら感じるコンセプトについて、これまたある意味面倒いくらいに、多角的に論じたのがこの本である。

「絆」「つながり」という言葉が安っぽく連呼され(それは、90年代のJ-POPのタイトルやサビで大安売りされた「愛」や、00年代においてやはりバーゲンになった「友達」「仲間」とも似ている)、ソーシャルメディアの「友達」や「フォロワー」の数が自慢の対象となるこの時代においてこそ読まれるべきものだと思う。

「友達」の数を自慢する「意識高い系」こそ、読むべきだろう。あなたに友達は実はいないことに気づくかもしれない。



小田嶋さんの視点は相変わらず鋭く、様々な角度から切り込んでくるのだが、逆にそれによって、その面倒くさい存在である友達が、やっぱりいいなと思えてしまうのは不思議である。

ぜひ、チェックを!