
すごい枚数のPOPを書いた。まだまだ足りないのだが。
先週出た、この本のためだ。Amazonの動きは正直、あまりよくないが、大型書店では大プッシュされている。読んでもらいたいし、読まれる本だと信じている。
本は、一生懸命書かないといけないし、読者に手にとってもらわなければならない。自分はコンスタントにチャンスを頂けてはいるものの、売れている著者ではない。自分の実力が劣っていることは、自分がよくわかっている。だから人一倍、努力と工夫をしなくてはならないのだ。
そんな時に、BLOGOSを覗いてみたら、こんなエントリーを発見した。
東浩紀氏「多くの著者にとって、書籍の出版は割に合わない商売だ」 ぼく「その通り」
http://blogos.com/outline/108908/
イケダハヤト師のエントリーだ。彼に絡んでもしょうがないが、中身がほとんど、東浩紀さんのツイートのコピペだったので、思わず読んでしまった。
なかなか悲しい気分になるエントリーだった。これ、1ヶ月前くらいのツイートだが。私、TwitterもFacebookも一生懸命見ない人なので。そうか、東浩紀さん、こんなことを言っていたのか。サントリー学芸賞を取った彼が、こんなことを言うなんて、残念だ。いや、それが業界の実態なのだけど。
言っていることが、現状認識として合っているかどうかで言うと、合っている。一連のツイートは事実関係で言うならば、いちいち正しい。出版業界全体が徐々に縮小しているのは紛れも無い事実だ。2014年は、業界全体の売上が約1兆6000億円で、対前年比4.8ポイント減、金額にして800億円のダウンだったという。
肌感覚としても、どんどん書店が減っていく、売れるものしか並ばなくなる、企画が通りづらい上、明らかに初版部数が少なくなっている、という感じがする。
ただ、「割に合う」ということはどういうことだろうか?
この言葉に、激しく違和感を抱いてしまったのだ。
ざっくり言うと、私の言いたいのは、こういうことだ。
1.「割に合う」かどうかで言うと、昔も今も「(短期的には)割に合わない」のでは?
2.短期的に見ると「割に合わない」かもしれないが、中長期で見ると、さらに言うならば、多面的な展開をすれば、割に合うのでは?
3.もう「割に合う、合わない」で書籍を語る時代ではないのではないか?
ということだ。
1について。書籍を出すためには、企画を通さなければならないし、取材、調査など準備をしなくてはならないし、なんせ10万字も書かなくてはならない。売れないと、次のチャンスは来ないし、売れたら売れたで、やっかみが。何かを主張するならば、批判されることだってある。「批判」というのも、著名な論者と健全な論争が起こるならまだ社会的にもインパクトがあるが、単なる「Amazonの書評に非道いこと書いてやったぞ」的なもの、書籍の批評を装った個人攻撃も多いわけで。本の内容によっては訴訟のリスクだってある。
もちろん、以前はお金を払ってくれる読者も多かったわけだし、書店の数も多いし、図書館にも入るし、部数も弾むしということで、環境が良かったといえるだろう。
ただ、それはそうとして、書籍を書くという行為が無理ゲー的なのは今に始まった話ではない。構造的な問題である。
2について。これは、分野にもよるのだが、書籍をきっかけとして、講演や執筆、メディア出演、その他、本に関する仕事の依頼などがあり、トータルでは儲かることがある。例えば私は、売れなかった本をキッカケとした講演依頼で食べていたりする。そういえば3年前に出した本は、ドラマのネタ本となり、最近、1000部を超える追加オーダーが入った。『「意識高い系」という病』(ベストセラーズ)という本だ。あくまで偶発的ではあるのだが。短期的な売上、書籍の売上だけで割に合うかどうかを語ってはいけないのではないか。
3について。思い切り精神論だが、むしろ、私は、割に合う、合わないという議論を手放した方が良いと思うのだ。書きたいと思った人、そして出版社から仕事をもらえる人が書く、と。もちろん、出版社としては売上が立たないと厳しいのだが。
名著と呼ばれる本は、「割に合う」ことを期待して書いたものなのだろうか。マルクスやドストエフスキーが「割に合う」とか「割に合わない」とか語っていたとしたら、嫌だ。いや、語っていたかもしれないけれど。
思うに、割に合う、合わないという議論自体がナンセンスなのだと思う。世の中に(いや、そこまで広くなくても、ある小さなジャンルだけでも構わないのだが)、何かを伝えようと思うのなら、覚悟が必要なのだ。物を書くというのは、そういうことなのだ。出版業界はしぼむことによって、逆にそれでも書籍を出す意味というのが問われているのだと思う。
もちろん、業界をどうするかという発想は必要なのだが、著者個人の処世術としては、どうやって食っていくかということを常に意識しつつ、チャレンジし続けるしかないのだと思う。
別に、今のところ、電子書籍や、ニコ生などのツールが劇的にマネタイズのお手伝いをしてくれるわけではないわけで。イベントをやっても、儲かるわけではないわけで。
まさにこの件は、ここ数年、ずっと悩んでいたことだったのだが、まさに昨年の後半に東浩紀さん、飯田泰之さんとゲンロンカフェで鼎談して、「ああ、この議論をしている自分ってかっこ悪いな」ということに気づき、なんとか生きること(書籍以外の手段も含む)、そして、書籍は「割に合う」とか「合わない」とか考えずに、自分がやりたくて出版社や何より読者が期待してくれるならやればいいし、そうじゃないならやらなくてもよい、そう考えるようになった。
とはいえ、紙の書籍は残るし、社会を動かしている上の世代の人たちに届くし、そこで何かが変わるかもしれない。
「書籍だけで食わない」「売れようと思って本は書かない」「残る本を書く」という覚悟ができたのが、昨年の迷走、充電を経て、行き着いた答だ。そして、「割に合う」「合わない」なんて議論をしなくてもすむように、心も身体も、そして経済的にも余裕をもって生きる、と。
4月からは千葉商科大学国際教養学部の専任講師となる。つまり、就職するわけだ。教育と研究に没頭しつつ、新たな知を創りだしたいと思う。いま、最高に創作意欲、研究意欲がわいている。いい感じだ。もちろん、大学や教員の未来が明るいかどうかでいうと?だと思うが、そういうことが気にならないぐらい吹っ切れた感じだ。
最後に、東さん、「割に合う」「合わない」なんてことを言っていたら、私はあなたが運営するゲンロンカフェには出演しないわけだよ。自分で納得するイベントをやるには、出演料だけで足りないからいつも制作費は自腹だし、集客が読めないから、いつもファンに呼びかけて、来て頂いている。先日のネットニュースに関するイベントも、お世話になっている編集者2人にお願いし、たくさんの方にご来場頂き、満席と言っていい入りだった。おかげ様で、ゲンロンカフェの中では動員は良い方だと思う。毎回、真剣勝負だし。
今後も、出禁にならない限り、声がかかる限りゲンロンカフェには出たいと思っている。次にやりたい企画も3つくらいはある。
「割に合う」「合わない」という話ではないのだ、これは。
なぜ、そこまでやるのか?
それは、東さん、あなたやスタッフに共感し、応援しているからだよ。そして、こういう振り切れた境地に行けたのは、あなたとの会話を通じて、そうなったのだ。
最後はこういう、愛、熱量があるかどうかなのだ。
だから、私は書籍を書く。伝えたいことがあるかぎり。仕事がくる限り。
