大学時代の部屋

阪神・淡路大震災から20年だ。

あの日のことを徒然なるままに書いてみよう。

写真は1995年の私の部屋だ。

1995年の1月17日は火曜日だった。ひどく寝坊をして、3限から大学に行ったことを覚えている。いや、確信犯的なサボりだった。寝過ぎたので、テレビも付けず、急いで大学に出かけた。そう、テレビを付けなかったのだ。立川のアパートから小平のキャンパスへは、電車で通っていた。通学中にしっかり新聞の朝刊を読み、その日のニュースはひと通り把握したはずだった。

大学に行ったら、みんながザワザワしていた。その時、「関西で、この世の終わりのような、凄まじい地震があった」という話を聞く。

そうか、そうなのか。

しかし、その話を聞いても、何がなんだか分からなかった。

帰宅して、テレビを見て絶句した。

とはいえ、それでもリアリティがわかなかったのもまた事実なのだ。出身者の友達から話を聞き、同情し、悲しむものの、とはいえ、まだ分からなかった。

実は震災がどれだけ大変だったかということについて、リアルに感じたのは、社会人に入った1997年のことだ。震災の時に関西に住んでいた方から、リアルな被災体験を聞いた時のことだった。

1995年 (ちくま新書)
速水 健朗
筑摩書房
2013-11-07


速水健朗氏のこの本が大好きなのだが・・・。彼がこの本で論じているように、1995年は大きな転機の年だったと思う。なんせ、震災と地下鉄サリン事件の年なのだけど、その印象が強すぎて、他のことを忘れがちなのだが、政治も経済も文化も国際社会も沢山の変化があった年だ。何かが終わり、何かが始まったような。

ちょうど戦後50年だったし。

私は1993年から1997年に大学生だったのだが、まさに世の中の変化というか、終わりと始まりを感じた4年間だった。

大学時代から、私はこんなことを言っていた。今でもそう思っている。

それは、東スポと世の中の逆転だ。

東スポ的な「本当かよ?」という報道以上に世の中が、不思議で、こわい時代に突入した、という。

一方、震災の悲惨な光景が画面に映っても、いまいちリアリティを感じないというか。劇場化したというか。

寒い時代になったものだ、と。その後も集合的記憶とも言える大事件で、何度も心を痛めたのだけど、それでも、「本当かよ?」と思った、という。

それでも2011年3月11日のことはリアルに感じるのは、自分自身で揺れを感じたからであり、寒い中家族と歩いて帰ったからであり、仙台が生まれ故郷だったからであり、被災地に雇用支援のボランティアに出かけ、傷や痛みを感じたからである。

想像力は豊かな方だと思うのだけど、出来事に対するリアリティを感じないくらい信じられない出来事が起きている。それについて騒ぐのと、無関心はこれまた違うのだと思う。関心を装った無関心。

人は、いろんなことを忘れていく。想像力が時に貧困になるし。

うるさいくらいに思い出さないと、このような出来事のことも忘れてしまうのだろう。ネットの時代で、情報が伝わるのだけれども、想像力がないと、よく分からない。

なんせ、1995年までの東スポよりも世の中が東スポ化してしまったと思うのだけれども。


そんなことを感じた20年後の朝。

くるぞくるぞと思っていたら、関西電力はこんなお涙頂戴CMを流していた。

あの年、あの街で生まれた若者を私も応援したいし、応援する姿勢は評価するが、とはいえ、このCMを見て少しだけ悲しくなった。こんなに明るくなった神戸の街ほど、世の中は明るくないから。関西電力は、電力を売ってくれるけれど、幸せは売ってくれないから。そんなものは、売切れかもしれないから。それでも、幸せになりたいと思って私も、彼ら彼女たちも生きるのだけれども。

そろそろ20年前の陽平青年が起きる時間だな。いま、仙台に被災地の就労支援のために向かっている。あの信じられないような大震災の後、さらにあんな大震災が起こるとは、20年前の陽平青年はまったく想像できなかったと思う。まあ、ノストラダムスの大予言は大変に気になっており、死ぬ覚悟のようなものはあったように思うのだけど。

生きていることは奇跡だ。先人の流した血と汗と涙を忘れず、今日も前に一歩進もう。