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都知事選を振り返ってみて、なかなか興味深いのは、もっともそうで、実は相当ズレている意見がネット上で散見されたことである。大変、気になったのは、候補者について何か意見や感想を言うと「行動しない奴はクソだ」と言い出す人たちである。熱い意見のようで、実はこれは暴力でしかない。議会制民主主義を華麗に否定しているからだ。

この件が、特に可視化されたのは、家入一真候補をめぐるやり取りである。何度も書いているが、立候補した勇気は認めよう。まだ本気かどうか分からないけれど、どうやら政治活動も継続するようである。ただ、今のところ、残念な部分が多々あったのは事実だろう。

そんなことを、昨日のブログに書いた。

家入一真さん、「ぼくら」って「誰」なんですか?

BLOGOSにも掲載され、大反響だった。2月12日の午前2時現在、約900RT、約2370いいね、はてブが約300となっている。

やや炎上気味になったものの、Twitterの反応をみる限りでは好意的な意見が多かった(というと、いかにも自画自賛風に見えるので、こちらをクリックしてご判断頂きたい)。

否定的な意見で、見受けられたのが、冒頭で触れた「行動しない奴はクソだ」的な意見である。この記事を書いている途中にも家入氏シンパと思われる方から、そんなメンションをTwitterで頂いた。

気持ちはわかるが、立ち止まって考えたい。実はこれは、自分の首を占めかねない、いや、人類の民主主義の実現に向けた歴史すらも否定しかねない、危険な発想である。議会制民主主義を否定しないか、この意見。

ここで言う「行動」とは、おそらく「立候補」のことを指す。「立候補もしていない奴が、文句言うな」という話である、要するに。熱い意見のようで、これは大間違いである。中学校の社会科の教科書を読み返した方がいいレベルである。だいたい、世の中は、立候補しない人で動いているのだ。99.999999%くらいの人の存在を否定しないか、この意見。

そして、人間としての資質、可能性を確かめ、立候補者の政策を確かめ、人は投票する。庶民にとっての「行動する」とは「投票」することに他ならない。あるいは、「投票」以外のかたちで候補者を応援するのも「行動」だ。政治に対して意見を発信するのも立派な「行動」だ。

行動=立候補しない奴が口だけで批判するなという話になるが、この批判自体が相当おかしいことは自明である。その候補者に任せていいのかどうか、評価し、投票すること自体が、良識のある市民の行動、そのものである。

そもそも、候補者は公人なので、批評される宿命を背負っている。それが嫌なら、立候補などするなという話になる。

ここで、まさにどの候補を、どの政策を支持するかという論争が起きるわけだし批判合戦も起こるわけだが、政治をめぐる議論ってそもそも、そういうものじゃないか。

「行動(=立候補)しない奴はクソ」という意見がまかり通るのも多様性といえば多様性であるが、このような発言が実に幼稚だ。やや論理は飛躍するが、我が国の民主主義なんてものは、そんなものだということを可視化している。

それにしても、昨日のエントリーと、それに対する反応というのは家入一真氏の言う「ぼくら」というのが実に閉鎖的、限定的であるということを明らかにした。

これが現実だ。

まあ、投票という行動をしたところで、私の住んでいる墨田区では、清き1票も実際には、衆議院選で0.55票、参議院選で0.22票くらいだったりするのだけど。このサイトで計算してみよう。

さらに、支持団体の力学だとか、人口の構成だとかを考えるとたまに絶望するのだけど。

やや横道にそれたが、一見するとまともそうで、大変に危険な意見だと思ったので、警鐘を鳴らしておく。



要するに、僕たちはガンダムのジムであるということだ。


今の私の気持ちを、札幌の偉大な先輩、フラットバッカーが歌っている。「ハードブロウ」という曲だ。

「いい加減にしなさいよ、今に痛いめにあうわよ」


心が洗われる曲だからぜひ聴くように。

バルス。